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国際ピアノコンクールで優勝した辻井伸行氏はとても全盲とは思えない指さばきだ。 ずば抜けた美しい音色と高度の叙情性で世界中の多くの聴衆に強い感銘を与えている。 乳児の時、盲目に気付いた母親は、失意のあまり共に死を考えたことがあったというが、ある日絶対音感を持つ我が子にハッとし生活は一変する。 ピアノから片時も離れず歩み続けた彼は、ついに新人ピアニストとして世界の頂点に立つ。今後共、ピアノ抜きでは彼の人生は考えられない。まさに「ピアノこそ我が命」であり唯一無二の存在であり続けるだろう。 この世で何物にも換え難い最も大切なもの、それは人命である。だが、この「生物学的な命」と負けず劣らず、時にはそれを投げ打ってでも――本来あり得ないことではあるが――大切にしたい、別格の「第2の命」を抱えながら人生を送るケースがある。 命運を託された白球を巡っては、野球のダルビッシュ投手、或いはゴルフの石川遼君等多くの一流人がいる。 医療の現場でも、ある意味これとよく似た場面がしばしば生ずる。 事故に遭い、開頭手術により何とか一命は取り止めたものの、顔面は大きく陥没し二目と見られない醜い傷跡。多くの人はここで、「そのまま死んでしまえばよかった」と心の底から嘆き苦しむ。 だが、この時人間には本来の「生物学的な命」のほかに「社会的な命」というものの存在に気付くことになる。 真の医療の目ざす道でもあるが、患者の幸福を願って、2つ目の命を救い確保するのである。そこで活躍するのが、見た目を整えてくれる「整容」という名の修復術。まだ数は少ないが、大学病院の脳神経外科領域に「傷跡外来」を設け、心に暗い影をもつ多くの患者を救っている。 乳癌の手術に当たっては、通常女性は極力乳房温存手術を希望する。乳房は女性のシンボルであり、それを失うことは、女としてのアイデンティティを失うこと、とまで考える。 例え生まれながらの乳房を失うことになっても、恰も血脈が通っているかの如き第2の命が整容によって甦る。 こうして、「生物学的命」でもなく、「社会的命」でもない、人それぞれの尊厳ある生き方に応じて、独特な命の存在することを知る。それが動物とは違った、霊長類としての人間の深遠なる存在意義というものであろう。
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