オピニオン

「事件」

 2022年のノーベル文学賞作家アニー・エルノー(1940~)が2000年に刊行した「事件」は、1975年まで妊娠中絶が違法とされたフランスにおいて、学生時代だった1960年代に体験した望まない妊娠と、非合法な中絶手術を受けた自身の体験の一部始終を赤裸々に記した、いわゆるオートフィクション=自伝的テクスト。中絶手術を引き受けてくれる医者を見つけられずに焦燥に駆られる主人公の心の動きや、果ては学生寮のトイレで流産する場面までが、独特の冷徹な文体で生々しく描かれる。作中、著者は執筆の動機を次のように告白する。
 「この種の話は、苛立ち、もしくは反発を引き起こすかもしれない、あるいは、悪趣味と非難されるかもしれない。何であれ、あることを経験したということが、それを書くという侵すべからざる権利を与えてくれるのである。真実に優劣の差はない。それに、この経験との関係を最後まで突き詰めないならば、わたしは女性の現実を覆い隠すのにひと役果たすことになるし、この世の男性支配に与することにもなってしまう」
 さて、「この世の男性支配」から女性が脱却し、自由意思による選択を行ううえでの環境整備が一歩進んだ、といえるだろうか。去る8月、厚労省の薬事審議会が、緊急避妊薬のOTC化を了承した。2017年から8年間の議論を経て、ようやくOTC化に漕ぎ着けたわけだが、同剤を販売するための薬局及び店舗販売業の要件には、所定の研修を修了した薬剤師が勤務していることや、プライバシーへの十分な配慮、緊急避妊薬を服用するための飲料水の確保等に対応できるような体制を整備していること、近隣の産婦人科医等との連携体制を構築していることなどが条件として設定された。さらに販売に際しては、研修を修了した薬剤師の前で服用する「面前使用」や「性交後72時間以内に薬剤師から1錠を受け取り、その場で服用する」などの“シバリ”が付されている。要するに緊急避妊薬のOTC化は、薬剤師への信頼の基に承認された、といえる。薬剤師に課された責任は大きい。



(2025年11月7日掲載)



前後のオピニオン

◆「事件」
(2025年11月7日掲載)
「日薬学術大会の課題と方向性」
(2025年10月31日掲載)