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自然界で厳しく生きる動物は、年老いて自ら餌を摂れなくなると次第に衰弱し死んでいく。 一方、人間界の終末期は、超高齢となってどれほど衰えたとしても、そう安々とあの世に旅立つことはない。丁寧に食べやすく調理してくれるし口元まで親切に持ってきてくれる。更に衰え飲みこむ力がなくなってしまっても、人間という名の貴重な命は簡単に見捨てられはしない。 口腔機能はともかく、腸管機能が働いている限り「胃瘻造設」という医療技術が施され、栄養摂取が継続され命の先送りが可能となるのだ。 更に、次の段階には中心静脈法があって至れりつくせり命を永らえさせる努力が払われる。 そんな日本の一般的な終末期手当てに対して、欧米の方式は、はっきりいって“ドライ”な理念が感じられる。口から食事が摂れなくなってしまったら、ジタバタせず甘んじて死を受け入れようとする思想が、国民に伝統的に浸透しているように思える。 まさに、動物界における生命輪廻の掟と一脈通じ合うものが感じられる。医療側、家族側、そして世論として、終末期のその厳しい態度決定を“致し方ないこと”として是認し、実際、司法上トラブル化することがめったにないのだ。 アルツハイマー病は、終末期に陥ると脳病変が進行し、体の自由がきかなくなる。結局、摂食、嚥下行為も不可能となる。 こうした場合、例えばスウェーデンでは、食物の形態を工夫するなどして、それなりの努力はするが、あくまでも経口手段での範囲内。それがいよいよ不能となれば、末梢からの点滴による電解質補液のみの、いわば事務的・形式的な処置で看取ることとなる。 対して、日本で通常見られる実態はこうだ。特養施設から病院へ送られてきた経口摂取不能患者は、経営上の問題等も関連して、前述した如く胃瘻が造設され、次の施設へ回送される。 問題の本質は、いわばこの機械的処置を受ける患者本人の生き延びることの意味である。 NHK特集で「胃瘻の功罪」として問題提起され、医療界では本件に関する議論が真剣に取り交わされている。 人は一日でも一時間でも長く生きた方が良いのか、生きるということとはどういうことなのか。医療福祉に従事しているあるオピニオンは、可能な限り命に寄り添うことが、プロとしての矜持と述べているが。
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