薬事ニュース社
オピニオン

>>>物事にはいろいろな面がある<<<
 「国家的に癌撲滅や禁煙を大々的に始めたのがナチスドイツだって知ってるか。タバコが健康に良くない、と国家的に喫煙の習慣を撲滅しようとしたのもナチスドイツが最初だ」「それを聞いていると、ナチスは色々いいことをしようとしたんだなあって聞こえますが」「ある意味では、そうだ。まさにその連中が二十世紀はじまって以来の人種虐殺を行ったにしてもだ。物事には色々な面があるってことだよ」(伊藤計劃著「ハーモニー」)
 健康至上主義の徹底によって人類があらゆる病気を克服した未来社会、ほとんどすべての人間が生涯一度たりとも病気に罹らず、生まれてから老化による寿命を迎えるまでただただ平穏で単調な人生を送るような世界を描いたディストピア小説の一節をいきなり引用したのは、現代の「禁煙ファシズム」とも称される国家的嫌煙運動の是非について論じようというのではない。「イレッサ訴訟」の判決を聞いてふと、このSF小説が脳裏に浮かんだのだ。
 肺癌治療薬「イレッサ」の副作用による死亡事故を巡る訴訟で、2月に大阪地裁の出した結論は、「企業には賠償命令」「国への請求は棄却」というものだった。薬に副作用は付きもので、とりわけ抗癌剤は副作用が強い、そのことを承知のうえでそれでも裁判に訴えざるを得なかった原告の無念さと、一方で「すべての副作用を予見せよといわれては治療ができない」という医療関係者の懸念、助かる患者まで見殺しにするようなことがあっては元も子もないという患者の思い―。大阪地裁の判決は、物事の裏表、あるいは「正」の作用と「負」の作用=副作用、双方の結節点というか妥協点を何とか手探りした結果のように見える。何が正解か、そもそも正解があるのかすら分からないが、SF小説とは違って癌も、したがって抗癌剤の副作用も撲滅されてはいない社会に生きる以上、どこかでその現実と折り合っていかねばならないのだろう。
 蛇足ながら伊藤計劃氏も肺癌により09年にこの世を去っている。享年34歳だった。
(2011年3月18日掲載)