薬事ニュース社
オピニオン

>>>「安心」という判断<<<
 最近、「安心の○○」「安心を与える△□」というような宣伝文句を多く目にするようになった。マンションの耐震偽造や牛海綿状脳症(BSE)といった社会的な問題が立て続けに報道された影響で、個人的に「安心」というキーワードに敏感になっているだけなのかもしれないが、よくよく意識していると、この「安心」という言葉は日常の多くの場面で接することに気が付いた。
 そもそも「安心」とは一体どのような意味を持つのだろうか。「安心」という言葉の意味について辞書を引いてみると、ある事象について、「心配・不安がなくて、心が安らかなこと」とある。なるほど、どうやら「不安」ではない状態を指すらしい。それでは、「不安」の意味はどうであろうか。「安心のできないこと」とある。
 人の感情は、様々な情報により「安心」と「不安」との間で刻々と移り変わる、そんな不確実なものだ。しかし、不確実ではあるが、人は手に入れた情報を意識的・無意識的に取捨選択し、その度合いを決定している。つまり、「安心」を得るということには、多分に妥協的な要素が含まれているのである。
 もし、耐震偽造問題のような、ある事柄について「安心」を損なう許容しがたい事実があったならば、「安心」を侵した主体には当然、その事実に対する責任を果たさせるべきであろう。しかし、「安心」を得ること自体は己の心の問題であり、本質的にはその判断の責任を他者に委ねることはできないのである。
(2006年3月31日掲載)