薬事ニュース社
オピニオン

>>>薬草・呪文・シュバイツァー<<<
 その昔、米国のN・カズンズ医師がアフリカ・ガボンにシュバイツァー博士を訪ねた時のこと。博士と共に現地の呪術医の「医療行為」を見学していたところ、こんな光景に出くわした。
 「呪術医はある患者に向かっては、薬草を包んでその用い方を指示するだけだった。別の患者には薬草は渡さずに、あたりに響き渡る大声で呪文を唱えた。第三の部類の患者に向かっては、低い声で話し、シュバイツァー博士の方を指さした」――呪術医の見立てはこうである。機能性の障害をもって諸々の症状を訴える患者には気休めに薬草を与え煎じて飲ませた。第二の部類の患者は心因性の軽症の病気だからアフリカ式精神療法を施した。第三の部類の患者は重い肉体的疾患に罹っており外科的療法が必要だから、目の前のシュバイツァー博士のところへ患者を振り分けていたのだ。シュバイツァーは地元呪術医のおこぼれにあずかっていた訳であるが、まさに呪術医の“診断”の妙である。
 ある患者にとって必要なのは高度先進医療ではなく、精神的な癒し・共感であるのかも知れない。その判断(診断)が適切でなければ、いくらテクニカルな部分での治療が及第点だったとしても、本来的な意味での“医療”を施したことにはならない。
 “診断”とは物語を読み解くことにも似ている。心身の弱った患者とどう対面するのか。おそらく医療の受け手の心情・立場・背景を思いやることに、やり過ぎるということはない。医療における診断とは、感性をも総動員して総合的に患者の心身を読み込む“文学”であるのかも知れない。そしてそれは、機械がとって代わることのできない仕事なのだ。
(2006年9月1日掲載)