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>>>「彼は正しい死をさがしていた」<<<
 「放浪の作家」「旅する作家」などと称されたブルース・チャトウィンは、紀行文学の最高峰とされる「パタゴニア」「ソングライン」のほか、実在の奴隷商人に材をとった「ウィダーの副王」など5冊の著作を遺し、1989年に48歳の若さでこの世を去った。HIVだった。現在公開中の映画「歩いて見た世界~ブルース・チャトウィンの足跡」は、伝記映画というよりは、チャトウィンの作品の背景にある思想や神話の世界を、「ウィダーの副王」の映画化に際しても監督を務めたヴェルナー・ヘルツォーク監督が探求するドキュメンタリーだ。
 映画では、親交のあった人たちが、バイセクシャルだったチャトウィンの人となりについて、口々に褒めそやす。「彼はものすごいハンサム」で、魅力的だった、と。「彼はあらゆるものを魅了した。男も女も、犬も猫も、ティーカップやテーブルクロスさえも」。
 しかし、目には見えない「歌の道」に導かれて放浪するオーストラリアの先住民アボリジニの世界を描いた「ソングライン」の調査・執筆中に病に罹患し、体調は極度に悪化する。死が突如として、彼の身に迫ってくる。
 「彼は正しい死をさがしていた」。最後の日々を知るチャトウィンの知人のひとりは映画のなかでそう証言する。「ソングライン」の巻末近くでは、チャトウィンも自身の心情を吐露するかのようにこう記している。「神話の世界では、みずからを“正しい死”へ導く者こそが理想的な人間とされている」。「正しい死」とは何か。「ソングライン」には結論めいた記述も見られるが、チャトウィンその人が「正しい死」へと導かれたかどうかはむろん、知るすべもない。
当時は未だHIVの画期的な治療法は開発されておらず、発症や症状の進行を遅らせるのが精一杯だった。その後の医療の急速な進歩も、世界の果てへの旅すら厭わないチャトウィンの健脚には追いつけなかった。
(2022年7月15日掲載)